藍甕転覆《あいがめてんぷく》事件

「いや、服ならあるんです。ソロソロ閑《ひま》になりましたから、一つ着かえますかな」 そういって帆村は、そこに張り番をしていた警官に会釈すると、警官は椅子の上に置いてあった風呂敷包みをとって差出した。風呂敷を解くと、宿屋に残してあった洋服がそっくり入っていた。「呆《あき》れたものだ。早く着換えとけばいいのに――」「そうはゆきませんよ。事件の方が大切ですからネ。洋服なんか、必ず着換える時機が来るものですよ」 そういいながら、帆村は借りていた警官のオーバーを脱ぎ、病院の白い病衣を脱ぎすてた。 警官は帆村のために、襯衣《シャツ》やズボンをとってやりながら、検事には遠慮がちに、帆村に話しかけた。「――もし帆村はん。ちょっと勉強になりますさかい、教えていただけませんか」「ええ、何のことです」「そら、さっきの二人に帆村はんが云やはりましたやろ、東京は暖いとか、雨が降っていたやろとか、燕で来たやろ、娘はんの家は板橋区の何処やろとかナ。二人とも、顔が青なってしもうて、えろう吃驚《びっくり》しとりましたナ、痛快でやしたなア。あの透視術を教えとくんなはれ、勉強になりますさかい」

   藍甕転覆《あいがめてんぷく》事件

 帆村はそれを聞くと面映《おもは》ゆげにニッと笑い、「あああれですか。あれは透視術でもなんでもないのですよ。聞くだけ、貴下が腹を立てるようなものだけれど――」「ナニ帆村荘六の透視術?」と早耳の検事はその言葉を聞き咎めて、「――おい君、善良な警官を悪くしちゃ困るよ」「いや話を聞いておくだけなら、悪かなりませんよ」と帆村は弁解して、「――もちろん種があるんです。これは有名なシャーロック・ホームズ探偵がときに用いたと同じような手なんです。――さっき青年上原君に燐寸を借りたでしょう。あの燐寸は、燕号の食堂で出している燐寸です。まだ一ぱい軸木がつまっていました。夜には大阪着ですから、ここへ二人が現われた時間が十時頃で、燕号で来たことは皆ピッタリ符合します。なんでもないことですよ」

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