人間の血ではない

「それぢや私はおしまひだ。全く!」と、サイラスは叫んだ。「私はそんな事を言つてはゐない。」と、ノーエル博士は答へた。「といふわけは、私は用心深い人間だからね。」「でも是を見て下さい!」と、サイラスは異議を唱へて、死體を指した。「私の寢臺にこんな物があるんです。説明する事も出來なければ、處分する事も出來ないし、平氣で見る事も出來ない物です。」「平氣で見る事が出來ないつて?」と、醫者は答へた。「違ふ。かういふ種類の時計でも止つてしまへば、私にとつては、外科刀で研究される精巧な一個の機械に過ぎない。血が一旦冷くなつて滯つてしまへば、もうそれは人間の血ではない。肉が一旦死んでしまへば、もうそれは戀人として欲求し、友人として尊敬した肉ではないのだ。愛嬌も、魅力も、恐怖も、みんなそれに生氣を與へてゐる靈と一緒に拔け出してしまつたのだ。そんな物は平氣で見られるやうに馴れ給へ。といふのは、もし私の計畫が實行出來るとすると、君はこれから幾日も、君が今ひどく恐れてゐるその物と、絶えず接近して暮さねばならないからだよ。」「あなたの計畫?」と、サイラスは叫んだ。「そりやどんな事です? 早く言つて下さい、先生。私はもう殆ど生きてゐる元氣は無いのです。」 それには答へないで、ノーエル博士は寢臺の方へ向き直つた。そして死體を調べ始めた。「すつかり死にきつてゐる。」と、彼は呟いた。「さうだ、私の思つた通りポケットは空つぽだ。さうだ、シャツの名も切り取つてある。あいつらの仕事は手際がよくてぬかりが無い。幸ひにも、この男は小造りだな。」 サイラスはひどく心配して、これ等の言葉をきいてゐた。やがて醫者は檢屍を濟ますと、椅子に腰をおろして、ほゝゑみながら若い亞米利加人に話しかけた。「私はこの部屋へ這入つてから、」と、彼は言つた。「休まず耳と口を働かせてゐるが、この眼も遊ばせては置かなかつたよ。私は少し前からあすこの隅に、馬鹿に大きな物があるのに氣が付いてゐたよ。君の國の人達が世界中のどこへでも持つて歩く代物だ――つまり、サラトガ鞄さ。今の今まで私にはあんな圖體の代物の必要な事が考へ付けなかつたが、今やつと、はゝあこれはと氣がついて來た。あれが果して奴隷貿易に便利だつたか、それとも早まつて獵用ナイフを使つた時の後始末に出來てる物だか、私には決める事は出來ない。だが一つだけは私にもはつきり分るよ――あゝいふ箱の本當の目的は人間のからだを入れるにあるね。」「全く、」と、サイラスは叫んだ。「全く冗談を言つてる時ぢやありませんよ。」

— posted by id at 06:14 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.2350 sec.

http://harlowvts.org.uk/